Q&A

Q1 神は本当にいるんですか?

 

A1 これは一番基本的な大事な質問です。それだけに、誤解のないよう、注意して用語の定義をしておく必要があります。ここで、いるのかどうかと問う「神」は、天地の創造主である生きておられる真の神という意味でなければなりません。時々こんなふうに言う人がいます。「私は無神論者です。そもそも神なんて弱い人間の心の産物で、そんなものはじめから存在していなかったのです。」この人の場合、はじめに「神」を人の心の産物と定義して、そもそも存在しないものについて「それは存在しない」と言い張っているのですから、こんな無神論には何の内容もないわけです。

 では、この世界の創造主は本当にいるのでしょうか。あなたの住んでいる家は誰か建てた人がいるでしょう。家の中をくまなく探しても見つかりませんが、その家の設計者、建築者は必ず存在します。ちょうどそれと同じように、この宇宙と世界を造った神は本当におられるのです。(へブル3:4)

ある哲学者・神学者は、神の存在を論証するために次のような論理を展開しました。「われわれは今、神の存在を問うているが、その神はあらゆる性質において完全なものでなければならない。例えば『存在』ということにおいても完全であらねばならない。だから完全な神は存在しないということがあってはならないのである。したがって、神は存在するのだ。」どうでしょうか。論理として筋道が通っているのに、何かどこかでわからなくなっていて、神がおられることを知るのにいっこうに助けにならない。という感じがするでしょう。

 このほかにも、神の存在を証明しようとする試みはいくつもありますが、いづれも最終的な証明ではあり得ず、ただ創造主である全能の神を信じることは妥当であって理にかなっていると説得してくれるのみです。

 どんなに愛を論じ愛を定義してみても、愛したり愛されたりする経験なしには愛を知っているとは言えません。同様に、神の存在についていくら論じても、神を知ったことにはなりません。信仰によって神の愛や力を経験することなしには、神を知ることができないのです。(ヘブル11:6)

では、信ずるに足る根拠、土台があるでしょうか。あります。それは①この宇宙と世界の存在、②聖書の語りかけ、イェス・キリストの人格と教えとみわざ、です。

 これらの根拠に基づいて、私たちが実験をしてみることができます。聖書に書かれている神の約束どうり、自分の罪を認めて悔い改め、その罪のために死んで復活された救い主が自分に与えられるかどうか、体験的にテストしてみたらいいのです。

 

 

Q2 イエス・キリストって本当にいたんですか?

 

A2 キリストが架空の人物ではないかという疑いは、聖書を信じられないというところから出ているのだと思います。聖書に書かれているキリストの生涯が奇蹟に満ちているので「うそだあ」「本当はただのひとだったのでは」「いやいや、そんな人はいなかったのかもしれない」と考えが発展してしまうのでしょう。このような疑いには、聖書以外の資料から答えてみるのもよいと思います

ローマの代表的な歴史家タキトゥス(AD55頃~120頃)の著書『年代記』は、キリストについてこう書き記しています。

「それは、日頃から忌まわしい行為で世人から恨み憎まれ、『クリストゥス信奉者』(クリスチャン)と呼ばれていた者たちである。……この一派の呼び名の起因となったクリストゥス(キリスト)なる者は、ティベリウスの治世下に元首属吏(総督)ポンティウス・ピラトゥス(ポンテオ・ピラト)によって処刑されていた。(国原吉之助訳 『年代記』 岩波文庫)

 タキトゥス自身はキリスト教に反対だったようですが、にもかかわらず彼はキリストが聖書に書かれているとおりピラトによって処刑されたことを事実として認めているのです。

 また、キリスト教を異端とし、今も旧約聖書と民族の言い伝えの中で生きるユダヤ教の『タルムード』には、ナザレのイエスは弟子たちを集め、「魔術を行い、イスラエル人を迷わした」かどで罪に定められ、過越の祭りの前夜、十字架につけられたものであった、と記されています。ユダヤ教にとっては、イエスなどいてほしくもない人物でしょうが、彼らもまた、イエスは新約聖書に書かれているとおり、ナザレ人と呼ばれ(マタイ2:23)、弟子たちを集め、奇蹟を行い(ユダヤ人はそれを魔術と考えた。同12:24)多くの人に影響を与え、十字架につけられたのが過越の祭りの前夜だというところまで認めているのです。

 このように複数の異なった資料によって、キリストが歴史上に確かにいたこと、またキリストについて書かれている聖書は歴史的事実の記録として信頼できることが確認されています。

 別の面から見てみると、イエス・キリストが本当にいなかったのだとしたら、今日世界中にあるキリスト教会の存在は謎になってしまいます。ある時に突然でっち上げられたものなどではないことは、2000年の歴史をたどっても明らかです。

 近世から近代へのヨーロッパの歴史の中では、何でも疑うことが知者のしるしであると思われた時期もありました。今日もその名残でイエス・キリストの歴史的実在を疑ったり否定したりする人たちがいます。どんな説を主張することも自由ですが、それが何らかの権威を持つためには、キリストの実在を証明する全ての証拠事実を否定した上で、キリストは存在しなかったとする自説のための証拠を提出しなければなりません。

 

 

Q3 聖書は信頼できる書物ですか?

 

A3 この質問に答える前に整理しておかねばならないことがあります。「信頼できるか」というのは「どのような点で信頼できるか」という定義なり限定なりがはっきりしていなくてはならないからです。多くの場合このような質問の意味していることは、「後世の創作ではないのか」というようなことだろうと思います。

   その点についてなら、数々の歴史的な証拠事実を挙げて、はっきり「信頼できる書物だ」と言うことができます。旧約聖書については、ユダヤ教徒も厳密な規準に従って現在私たちの持つ39巻を選び、それらの書物はすでに紀元前から公認の聖書として用いられ、翻訳もされました。イエス様も会堂で旧約聖書の一書を開いて朗読されたことが福音書に見えます。新約聖書については、使途ペテロがその手紙の中でパウロの手紙について語っている箇所もあり、しかもそれを旧約聖書の権威ある書物と同等に置く扱いをしているのが目立ちます。(Ⅱペテロ3:15、16)

   さらに使徒たちが世を去った直後の時代のキリスト教会の指導者たち(教父と言われています)が、その著作の中で新約聖書がその時代には、すでに書かれて存在しており、重んずべき書物として公認されていたことの1つの証拠になります。

   もう1つ、「内容は正確か」という点もありますが、これについては、さらにいくつもの証明を挙げることができます。進歩した考古学は、聖書の難解とされていた文章に多くの光を与え、やはり聖書は正しかったのだという確信を与えました。古代の国家や町、支配者や戦争などについての記録が歴史的に正確であることが次々にわかってきたのです。それだけでなく、聖書の道徳的内容の確かさという点も人類の歴史や個人の経験の中で実験ずみです。

   そのほかに、聖書を書いた人たちは40人以上、1500年ほどにわたっているのに、全体に完全な統一と調和があるという事実も見落とせません。

   さらに、多くの預言が文字どうり成就、実現している事実も軽いことではありません。

   しかし、「神からのことばとして信頼できるか」という意味になると、これは別の質問だと言ってもいいでしょう。というのは、どんなにたくさんの証拠を並べても、「だから何だい」と居直ることだって人間にはできるからです。色々と説明された今、素直な心になって、神はおられるんだ、神はこんなに私を愛してくれていたのか、と信じる時、聖書が神のことばだということが本当にわかり、その約束の事実を経験して生きることができるようになるのです。この点については、次の質問の項で詳しい説明をしたいと思います。  

 

 

Q4 聖書は人間が書いた本なのに、どうして神のことばだなんて言えるのですか?

 

A4 「私が祈りながら野原を歩いていると、上空からヒューッと風を切る音が聞こえ、小さな点がだんだん大きくなってきて、私の足もとにドシンと1冊の本が落ちたんです。拾い上げてみると、『聖書』と書いてあって、同時に天から声が響いてきたのです。『これは私が書いて与える私のことばだ。謹んで読め』こうして与えられたのが、この聖書、神のことばです。」

  このような話が伝えられていたら、あなたはその聖書を信じますか。私は信じません。

   天地の創造主であるある神は、ご自分のことばを人間に与えるのに、そんな魔術的・おとぎ話的方法を用いませんでした。まず第1に、神が創造なさった天地自然は、創造主の存在と限りない知恵と力、おまけに芸術的センスについて、それを観察するすべての人に力強く語りかけている点で、神のことばです。ところが人間が長い間神から離れていたためにその理解力が鈍くなり、自然を見てもまるで習ったことのない外国語みたいに、意味がわからなくなってしまったのです。だから人々は、造り主でなく造られた物―――太陽や月や木や石や動物を拝むようになってしまったのです。

   第2に神は、歴史の中でイスラエル民族を選びました。彼らによってご自分についての正しい知識と信仰を保たせ、預言者を遣わし、神のことばを語らせたのです。預言者は自分の意見や思いつきを語ったのではなく、神の聖霊に動かされて神からのことばを語ったのである、と聖書は教えています。(Ⅱペテロ1:21)そして新約聖書を書いた使徒たちも同様に聖霊の導きを受けて書いたので、「聖書はすべて、神の霊感によるもの」(Ⅱテモテ3:16)なのだと主張しているのです。

   主張するだけなら誰にだってできる、と言う人もあるでしょう。確かに主張には、それを裏づける実績がなくてはなりません。聖書にはそれがあるのです。まず「統一性」です。1500年以上にわたって40人以上の人が筆を取り、66巻の書物を含む聖書が、完全な統一と調和を保っていて矛盾がないという事実です。

   次に「耐久性」です。「この天地は滅び去ります。しかし、私のことばは、決して滅びることがありません」(マタイ24:35)とキリストは言われましたが、聖書を滅ぼしてなくしてしまおうという攻撃や迫害は歴史の中で何回も繰り返されました。しかし聖書は滅びません。

   第3に「普及性」を挙げましょう。現在聖書は2011の言語に訳されており、毎年世界中で隠れたベストセラーを続けています。読者は老若男女、貧富、学問、身分の上下なく、あらゆる人に最も広く読まれているのです。

   第4に「真実性」です。聖書の中の古い歴史的記録の1つ1つが、考古学的研究の結果、真実な記録であることが確かめられていっています。

   以上のように根拠となる実績をいくつ並べても、最後の点がなければすべて意味がありません。それはあなた自身による「個人的実験」です。聖書の約束を信じるものに与えられる、神の救う力を体験した人は、歴史の中に数え切れないほどいます。あなたがそれを傍観しているだけなら、いつまでもわかりません。あなた自身が聖書を信じて従う時、あなたの人生が変えられる体験を通して、あなたは結論をだすでしょう。「聖書は本当に神のことばだ」と。

 

 

Q5 どの宗教を信じても、結局は同じなのでは?

 

A5 宗教の意味が、そしてその役目が、人を善良にし、社会を明るくするためだけのものであるなら、そう考えることは正しいでしょう。ほとんどの宗教も、程度の差はあれ、よいことを教えているでしょうから。

   けれども、宗教の役目はそれだけでしょうか。神と人間の関係についての教えなどは人を正しく社会をよくするための方便、つまり便利な道具にすぎないのでしょうか。もしそうなら、自分(人間)が第一で、神とは自分たちの便利と利益のために自分で造り出したものにすぎないことになります。そんな神を本気で信じたり従ったりすることができるでしょうか。

   本気で信じるには、以下の点がはっきりしているべきです。

① 創造主である唯一の生きておられる神に対する信仰であること。

  いわしの頭でも狐のしっぽでも、一心に信じれば何らかの心理的効果

はあるでしょう。しかし創造主なる神がおられるのに、私たちが神を無視

してそんなものを拝んでいるならば、それは単なる間違いにとどまらず、

創造主にたいする大きな罪です。

② 神がご自分の意志や願いを人間に語り知らせておられること。

これが聖書であると私たちは信じています。そして聖書自身もそう主

張しており、聖書の卓越した内容の事実はその主張とよく一致していま

す。日本古来の宗教では神々の意志はどうでもよく、祀る側のまごころ

が大事と考えます。しかしよく考えてみると、神がおられるなら、その方

の意志もあるわけです。それを聞かないでその方をまんぞくさせることは

あり得ません。ですから「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリスト

についてのみことばによるのです。(ローマ10:17)と言われているので

す。(聖書は神のことばかについては、Q4を参照)

  ③ 人間の罪の事実を教えていること。

     罪を否定する楽観的な教えは事実と矛盾し、人類の抱える大問題に

   何の光も与えません。

④ 罪の解決が事実に基づいていること。

観念や思い込みでは、罪とその責任はなくなりません。きよいキリスト

の身代わりの死と3日目の復活という歴史的事実に基づいて、私たちの

罪の赦しがあるのです。よいことを教えた聖人、賢人は多くいたでしょう

が、私たちの罪のために死んでくれた方はほかに知っていますか。

  「わけ登るふもとの道多かれど同じ高嶺の月をみるかな」などと昔から歌

われていますが、天地の創造主なる神のみもとに行くには、「わたしが道

であり……」(ヨハネ14:6)と言われた主イエスを通って行くしかありませ

ん。キリストを通らないならば、下の句は「いずれも迷う罪の深道」となって

しまうのです。     

 

 

終り

このQ&Aは いのちのことば社発行「キリスト教なんでもQ&A」 Hi-B・A著

より、一部を引用させていただきました。